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夕染逢想

時間切れだね

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chenged 2nd

最近、きわめて最近、自分が変わったと認識している。
自分が変わったという表現は正確では無いかもしれない。正確には変わったのは自分ではなく、周りと、自分の思考の一部だ。

人間というのは環境に大きく左右される生き物だから、周りが変われば自己も変わる可能性が高い。
これとまったく逆のことを言った、「他人は変えられないが自分は変えられる」という言葉がある。人間というのは矛盾で構成されているのと同じだと思う。
個人的には、やはり人間を変えるのは環境だ、自分で自分を変えたと思っている人は、結局自分で環境を変えて、その環境に影響されて変わったのだ。
つまり、どちらもそこまで変わりはないということ。変わっているのに変わりはないとは、これまた矛盾。

別に特にきっかけとか、理由とかはなかったんだけど、人が生きる意味というものについて考えてみた。もちろん結論が出るような問題でもないんだけど。
もし他人に同じ質問をされたらどう答えるだろうか。一つの可能性としては、「それを知ったら次は死ぬことの意味を知りたがるのか」とか、どうせこんなことを言うんだろうな。人が生きる意味という問題に一つだけ明確な答えがあるとすれば、それは答えは一つだけではないということだろうか。結局人の数だけ答えがあるという俗っぽい考えにいたってしまったわけだが。

極論を言えば、人間というのは刻一刻と変化し続けている。死に向かって歩んでいる。誰だってそうだ。もし、変化をしない、死にたいして一定の距離を保てる生物がいたとしたら、それはもう人間ではないんだろうなぁ。

昨日、今日と爪が伸びていることを実感する。僕は今生きているようだ。

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プレゼント


新鋭回帰一曲
プレゼント/BUMP OF CHICKEN

まず、震えた。
アルバム「THE LIVING DEAD」のOpeningとEndingの元となった曲。物語が始まって終わるまでの短い時間で、僕の心をぐっと捕らえて離さない。
新しくは無い。それはもちろん、一度聞いたことのあるメロディが流れてくるので、当たり前なのだが、それでもまったく別の曲。違う曲だ。
やはり印象としては、9年も前に描かれた曲だとは思わない。アルバムを幾つか経て、昔の方がよかったと言われるBUMP OF CHICKENだけど、これはまったく新鮮な曲であり、また懐かしさを覚える曲だ。それは演奏技術の向上とか、録音環境とか、使用機材とかが変わっているので当たり前かもしれないが…

この曲に「誰でも聴ける」BUMP OF CHICKENがある。この曲のためだけにアルバムを買っても損はしない。そう思える一曲です。


chenged


変わったのは誰だ

変わったのは僕だ

二次方程式

本格理系ミステリ一冊
すべてがFになる/森博嗣

事件は起こり、そしてもう終わっている。


森ミステリは読んでいて頭が痛くなる。延々と数学の問題を解かされているようだ。しかし絶対にやめられない。森ミステリは答えを探すミステリではないからだ。答えは既に出ている。しかし目の前に在るのは問題なのだ。

今日は書きたくないと思ったけど書きます。

人間関係とは虚数のようなものだと思う。
無いのに、在る。見えず、触れず、存在しないはずなのに、定義され、しっかり名前まで付いている。
そしてそれのことを考え、悩むなんて、本来馬鹿らしいことだ。だがどうだ、人間は意味もなく、形もなく、価値も無いものでしか悩まない。



聞こえるもの、見えるものだけが真実であれば、世界はもっと平和になれる。人間はもっと幸せでいられる。
そして現在、聞こえるもの、見えるものが真実と定義されているうちは、平和なんてものは虚数と一緒だ。

X=
この答えが出ずに思考が回転を止める。答えを出す以外の道は一つ。Xを消せばいい。
しかしまぁ、それは認められないんだよなぁ。

悲しいかな、悲しいかな。

ゲッペルドンガー

ちょっと前から、世の中のしがらみとか、僕の周りのいろんなものから開放されたくて、mixiの日記を全公開したりしてます。ニュース日記とか書くと、知らない人の足跡がたくさん付くので、僕の記事でも読む人はいるんだなぁと、感心したりします。

大学に入って、成長したことといえば、自分は気づいていないと自分に言い聞かせることくらいじゃないのかと、思ったり。
結局それは、僕が見てみぬフリをしているだけなので、問題ありといえば、そうかもしれません。しかし、見てみぬフリがそんなに悪いのでしょうか。もちろん僕の話です。一般論ではありません。
見たくないものを見てしまうというのは人生の中で何度もあると思います。見るつもりがなかったものを見てしまったらそれは僕にとって間違いでしかないわけです。例えるなら右折するはずの道路を左折してしまったみたいな、それくらいの感覚なのです。だからもとの道に戻り、改めて右折しなおす。それが何か悪いことでしょうか。

ま、見たくないものを見せられたという後味の悪さは残りますが。


目が悪いよりも良い方が不便はしませんが、何もかも理解できるほどの視力はいりませんよね。
やっぱりメガネをかける頻度をあげよう。メガネをかけるよりいらないものばかり見てる方が疲れる。

親父論

皆様方は、父親、母親をどのように呼んでいますか?3人称ではなく、2人称でです。
僕は、正直どういう風に呼べばいいのかわかりません。

昔は、「お父さん」「お母さん」これが普通でした。ちなみに僕は、というか僕の一家は叔母さんのことを「ママ」と呼称していますが何故こうなったのかよくわかっていません。しかし呼びやすくとても便利です。僕としては違和感がまったくありませんので。
しかし自分の母親はなんと呼べばいいのやら。「お母さん」は違和感があります。「お袋」なんかとてもじゃありませんが言えません。父親も同様に、「親父」とは呼べません。「お袋」「親父」と呼べるほど僕は偉くないです。
「親父」「お袋」なんてのは自分と親が対等になったと感じたときに初めて呼べるものだと思ってます。
僕なんかまだまだ、学生で、未成年で、自分のことすらも満足にできない若造です。何かあれば親に頼り、泣き言を言う、甘い考えしかもってない彼らの子供です。
世の中では、「親父」と呼び始めるのは中学生くらいからだそうです。僕はその全ての中学生に言いたい。粋がってんじゃないよと。お前は親父と呼べるほど偉いのかと。
そしてそうやって親父と呼ぶ子供を寛容な目で見守る父親は、やはりすごいなと。思うわけです。

今年の1月に実家に帰った際に、父親に「お前が成人して一人前になったら二人の男として酒が飲みたい」みたいなことを言われました。僕はそれを聞いて、少し自分が認められたような気がして、嬉しくなったのです。
あと一月ほどで僕も成人ですが、いやはや、まだまだ一人前にはなれそうにありません。
大学の試験が終わったら実家に帰ろうと思っていますが、そのときには僕はもう成人しています。さてさて、男同士で美味い酒が飲めるのか。いやいや、やっぱり僕はまだまだあなたの子供ですよ。

正直に言えば、僕は両親があまり好きではないんですがね。しかし、しかし、感謝はしています。そして、ちょっとだけ、あなた達の子供でよかったと、ホントにちょっとだけ、思っています。

そのうち親父と呼ばせてくれよ一曲
背中のバラッド/Lost In Time

なぁ 親父よ 悔しいが俺はまだ半人前だ
このままじゃ俺はあんたを越えられねぇ!!

罪の意識と許す心


一回世の中とどれくらいズレているのか測ってみたい。


さて、許さない。と言いましたが。

裁判官のように判決が下せるなら僕のことを忘れるという刑を下したい。



黒箱

道一曲
Way out/Cocco

圧倒的だと思います。唄の凄み。


よく聞いてるラジオ番組で、大人は信じられるか否かというテーマをやっていた。僕も高校生から聞いていて、その番組のリスナーは中高生がほとんどだから、問いかけみたいな感じで。
その番組の掲示板は大人なんか信じられないという書き込みで埋まっていた。僕自身、現在19歳、あと1ヶ月もすれば20歳、子供から大人に、未成年から成人になる最後の一ヶ月です。この中途半端なポジションから見た、大人と子供というものを考えてみた。
掲示板に書き込まれていたのは大人は信じられないという書き込みがほとんどで、内容はさまざまだったけど、大人は簡単に裏切る、大人は子供を信じていない。というようなものが多かったと思う。
僕が生まれてから見てきた大人は、僕が子供の視点から見た大人は、確かにお世辞にも100パーセントの信頼を寄せられるというものではなかったかもしれない。しかし、存在を否定したくなるほどではなかったと思う。
僕自身が大人になるということに対しても、戸惑いはあるものの、拒絶するつもりはない。

なんだかおかしな世の中になったと思う。
世間では子供を守ると声を荒げている大人たちが増えているのに、当の子供達はその大人を拒絶している。憎しみと言っていいほどの感情を秘めている子供達が増えている。
子供にとって一番身近な大人とは親や学校の先生だが、その親や教師すらも憎んでいる子供は多い。
若干無責任かもしれないが、彼らは、彼女らはいったい何を信じて生きているのだろう。
自分だろうか、友人だろうか、それとも顔も知らない携帯の向こうにいる人間だろうか。

以前書いた記事に、何を信じるべきか、死ね言うう子供、について書いたが、ココに来て一つに繋がった気がする。
何も信じられないから、全てを疑い、全てを憎んで、世の中に絶望してるんじゃないか。
だとしたら、だとしたら、こんなに悲しいことはないじゃないか。
想像しただけでもぞっとする。何も信じられず、自分以外の全てを攻撃するしかない子供達、不幸にもその攻撃の対象になってしまい、全てに絶望して自らの命を断ってしまう子供達、みんなみんな被害者じゃないか。

でも、絶望にもきっと終わりはあると思うんだ。
終わらせることができると思うんだ。

自己治癒能力

ピアスをはずしたのを忘れてて、そのまま学校に行って、バイトに行って、帰ってきてピアスを付けたら、耳たぶの後ろの方は薄く塞がってました。
もういい加減安定していいんじゃない?そろそろ4ヶ月くらいだよ?

自己治癒能力が尋常じゃないゴマがお送りします夕染逢想です。
この書き出しも久しぶり。


今月25日まで約2万円弱で生活しなきゃいけなかったんですが、臨時収入が入ることが決定しましたのでだいぶ楽になります。といっても1万円とちょっとですが。
コンビニをやめて一週間、そろそろ次のバイトを探そうと思い学生課へ、大学が斡旋してくれる所のほうがいいということに気づいたのでタウンワークよりそっちを優先してます。
今日見つけたのは、というか友達に教えてもらったのは大学病院の中にある喫茶店。土日を中心にという今現在平日オンリーの事務員をしている僕にはとっても好条件。しかも僕の家は文学部のキャンパスより医学部のほうが近いので、休日にわざわざ遠くまで行かなくていいという、まさに僕のためにあるようなバイト。今度も事務員のバイトと同様に他の人間には絶対に渡さない!
早速電話をして履歴書を送ってくれとのことだったので住所をメモメモ・・・あれ?住所が書いていない…
大学病院の中にあるというのでわからないことは無いけどももし外にあったりしたらどうすればよかったのかと。住所はちゃんと書いて欲しいものです。というかちゃんと書こう。

履歴書なんて久しぶり。写真あったかな。

青の憧憬

今日のBGM一曲
milk tea/福山雅治

牛乳みたいな人間になりたい。苦い珈琲とか、紅茶とかを、少しだけ飲みやすくする、牛乳みたいな人間。


6月になりましたね。九州南部は入梅したそうで。あれ?前にも書いたかな?

久留米から福岡に行くよりも佐賀に行く方が近いんですが、今日は佐賀の友達の家に行ってきました。
久留米から佐賀に入ると途端に建物がなくなるんですが、なんだか実家を思い出しまして。
筑紫野とかに行くと生まれた家を思い出すんですがね。

なんとなく、何もないんだけど、疲れませんよね。田舎って。
久留米って、実家とかに比べると格段に住みやすいですけど、なんかその分疲れます。久留米の大人って、というか社会って、なんでか急いでるような、余裕が無いというか、そんな感じなんですよね。
正直僕の性格というか、性分には合わないなと、思ったわけですが。
まぁそれは僕が田舎育ちとかそういうことではなくて、僕の思っているスタンダードな生き方というか、まぁ言葉はかっこいいですが要はのんびり行きたいということです。

物質的に楽な生き方をするか、精神的に楽な生き方をするか、二つに一つ、選ばなきゃいけないというはなかなか厳しいですが、そこは人生、両方というのは難しいものです。不可能ではないと思いますがね。今必要かと言われればそうでもないかなと。

学校にギターを置きっぱなしです。なんか弾きたくなってきました。まぁ明日はバイトも無いので、ゆっくりと堪能してきます。
バンドをこれからどうするかも考えなければいけませんね。どうしましょう、個人的には続けたいんですが。
メンバーの意思を聞かなければ。


今年の夏休みは実家に帰ろう。風に揺れる青い山の葉のにおいが懐かしい。
また蛍が見たいな。

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